一休宗純

一休宗純は臨済宗大徳寺派の僧侶。出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されている。『一休和尚年譜』によると母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けたが、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を生んだといわれます。

『風狂の僧』としても有名で破天荒な行動もされていました。一休宗純と親交があった浄土宗僧・村田珠光が『わび茶』的な考えをしますが、一休宗純の影響がかなりあると思われます。また『唐の高僧の墨跡(えんごごくんの墨跡)』を茶室に飾り、それが村田珠光→千利休と伝わっています。


<一休宗純の生涯:一休寺公式HPより抜粋>  

1394:正月一日、京都:洛西の民家で生まれる。
1399:京都安国寺の像外鑑公和尚の元に出家する。
   「周建」と名付けられる。
1406:建仁寺慕哲攀禅師に作詩を学ぶ。
   建仁寺では兄弟子に対して痛烈な批判を行う。
1410:西金寺の謙翁の弟子となり、「宗純」という法名を賜わる。
1414:謙翁入寂。
   哀しみの癒されない一休は入水自殺をはかるが、運良く助けられた。
1415:近江堅田祥瑞庵の華叟禅師に師事する。
1418:「祗王寵を失い尼となる」の琵琶をきいて「洞山三頓の棒をゆるす」の公案を会得
    華叟から「一休」という号を与えられる。
1420:琵琶湖岸の船の上で座禅をしている時、闇夜にカラスの鳴く声を聞いて大悟する。
    華叟から印可を授けるが、一休はこれを拒否する。
1428:華叟入寂。一休は京都に帰り、風狂の生活を送る。近畿一円を放浪。
1432:後小松天皇に謁見し、宝物などを賜る。
    この頃、堺 南宗寺に紹偵と共に住む
1440:請われて大徳寺・如意庵に入住し、27日より華叟13回忌を営む。
1442:謙羽山に入り、尸陀寺を創設する。
1453:大徳寺が炎上する。
1456:薪村妙勝寺修復を成し遂げ、大応国師の木像を安置し、酬恩庵を建立する。
1461:嵯峨に遊び、大応国師の墓所龍翔寺の塔を修復する。
   蓮如の営む親鸞200回忌に参加する。
1467:京都で応仁文明の乱が起こり、東山虎丘庵に難を避け、9月には酬恩庵に移る。
1468:霊山徹翁100年忌を、酬恩庵にて営む。
1469:戦火が薪村に及んだので、難を避けて大和・和泉の諸地を巡る。
    また住吉の松栖庵にも仮住まいする。
1470:住吉薬師堂(現・住吉大社)に遊び、森女に出会う。
1471:春、住吉にて森女と再会、以後同居する。
1474:第47世大徳寺住持となり、戦火に焼亡した大徳寺の復興を手がける。
1475:酬恩庵内の虎丘に寿塔を造り、慈楊塔と名付け、その文字を軒に掲げる。
1476:住吉の小野に床菜庵を造る。
1479:大徳寺内に、大用庵・如意庵を再建、法堂を建立する。
1480:弟子、墨済に命じて自らの木像を彫らせ、ヒゲを抜いてこれに植えさせた。
1481: 88歳 11月21日、酬恩庵にて入寂。


<一休宗純ゆかりの地>
◎洛西地蔵寺 ・ ◎建仁寺 ・ ◎建仁寺霊源院 ・
◎住吉大社 ・ ◎住吉松栖庵跡 ・ ◎堺南宗寺

 

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